うべなうな日々

いろんなきもち

映画感想『ニトラム』

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予告

感想

 社会に馴染めない者を扱った作品には、昔から否応なく惹き付けられる。それは自分が社会の一員であるということを胸を張って言えない種類の人間であることに起因している。

 自分に自信がないのは然ることながら、実際、同世代における社会的地位や身分、人脈、収入などを比較してみると、私は圧倒的に落伍者である。(「比べる」ということさえ適当ではないほどに、私が所有しているものはなにもないのだが)

 三十歳独身、リア友なし、高卒、特筆すべき資格なし、経歴は比較的楽なバイトをいくつも転々としてきたフリーター。肉体的にも精神的にも病名が付くほどの病もなく、ごくごく平凡な人間。ただ脆弱なのは、社会への適応力と忍耐がないということ。「今日は行きたくない」と思えば体調不良という嘘の理由で欠勤連絡。「仕事に行くのがつらい」と思う回数が増えればそのうちすぐに即日退職するか、バックレる。バックレたあとの書類や制服を返却しに職場へ赴く気まずさは、何度学んでも懲りない。

「三十までに一度は正社員の経歴がないとヤバい」という世間やネットの言説に影響されて一念発起し、二十九で正社員になるも、Webエンジニアとして食っていけるほどの頭脳はなく、休みがちになり、一年足らずで無断欠勤し、そのまま退職。正社員を機に一人暮らしを始めたものの、Webエンジニアで生計を立てていくつもりだった計画があえなく頓挫し、自分に適職なんてあるのかと途方に暮れ、途方に暮れていても金は減り貯金も底をついてきた。「とりあえずほかの仕事をする」という選択肢はもはや私の頭の中にはなく、「実家に戻る」という安易な一択で、それを母はすんなり受け入れるだろうと踏んで話をすると、案の定、承諾した。仕事を辞めたあとの二か月間は、ニート生活を満喫し、「とりあえず金がないのでぼちぼち働くか」と責任の少ない短期の派遣の仕事を最近になってはじめた。

 私は母親がいなければ、母型の祖父の遺産がなければ、こんな悠長な暮らしは送れていない。過保護・過干渉ではあるものの、こんなに良くしてくれる母親も珍しいだろう。にもかかわらず、一人暮らしを始める前まで、私は母親を極端に嫌悪し、憎み、恨み、自分がこんな出来損ないになったのは過保護・過干渉の母親のせいではないのかと本気で思っていた。というのも、信奉する心理カウンセラーが書いた心理系読み物を二十冊は読み漁り、やはり私の人生がこんなことになったのは母親のせいなのだと静かな怒りを募らせていたからだ。

 だが、こんなぬるま湯的生き方を選んできたのはほかでもない、私自身である。もちろん、母親の信奉する新興宗教の教えや制約が、子供心に少なからず影響を与えたことはあるかもしれない。しかし、帰宅部を選んだのも、水泳教室に行かなくなったのも、友達の誘いを断り続けたのも、自分の選択だ。なにも起きないことを選んだ結果が、現在に至っているだけだ。

 

 町田康の小説『告白』を読んだときもそうだった。「これは自分と同じだ」「熊太郎は私の分身だ」

 ニトラムも熊太郎も、「普通」になれない自分に苛立ち嘆き、拠り所だと思っていたものからも偶然なり必然なりの力が作用して裏切られ、一縷の糸が、あえなくプツンと切れる。「もうよいのだ。誰からの理解も必要ない」

 私は知っている。一縷の糸が私の心の中に存在しているということ。そして、その糸が、図らずも切れてしまう瞬間が、いつかの自分に訪れてもおかしくはないということを。

 それが今は切れずにかろうじて残っているのは、私が生きているぬるま湯的環境のおかげであること、偶然にも、感情を表すための言葉の引き出しが、一般人より少しだけ多いはずだという自負があること。

 逆に言えば、それらを失ってしまえば、私は私を自制できるかわからない。

 もしも、この生活環境が保てなくなり、感情を表すための言葉を引き出すことが、AIの手助けによって誰にでも可能なことがらとなったとき、私は私のアイデンティティを失う。

 そんなとき不安を覚えるのは、果たして私だけだろうか。

 

自殺という他者からは見えづらい自己完結の殺人と、民族、宗教、思想的意図の介在しない大量殺人との間に、はっきりとした線引きはなく、私にはどこか根っこのような部分では繋がっているように思われてならない。

 一人で死んだ者には、「死ぬことなかったのに」「かわいそう」と声を上げ、他人を巻き込んだものには「ひとりでしね」という。

 その線引きが私にはわからない。

 

 生まれながらに欠陥を持って生まれてきた者(そして才能と呼べるものも授けられなかった者)に、社会はいつだって冷たい。